僕が今、ここにいる。
これまでも、ここに居た。
でも、その自覚が、
ごく希薄だった。
4月 6日
ホワホワとした高曇り。
暫くぶりに、床屋へ行くことにした。僕が生まれた時、母親の栄子さんが連れて行ってくれたのは、中ん町にあった伊藤床屋だった。
もちろん、僕は赤ん坊だったので、その事を覚えてはいない。でも、その後、ついこの前までずうっと同じ床屋だった。僕は、中学生の時から仙台に通っていたが、ずうっと自宅に居た。社会に出てからは、家を出て仙台に住んでいたけれど、大学を出るまで、自宅にいた。そして、仙台に住んでいた時も、床屋に行く時は、岩沼に帰って来ていた。
大学を出た後、ニュウヨークに暫く住んでいたこともあったが、その時はおかみさんの明美さんに切ってもらっていた。その頃の写真を見ると、ものすごく(髪で)頭のでかい僕が写っている。僕の髪はすごい癖っ毛で、なんだかあっちこっち勝手に伸びていくので、切るの大変だったろうと思う。で、とにかく生まれた時から、ずうっと床屋は伊藤床屋。
伊藤床屋ももちろん代替わりをして、最初の頃のお父さんから、その息子さんになった。彼は僕より10歳ぐらい年上だったが、ガンになってしまいこの前亡くなった。その後、彼のオカミさんさんが変わって僕の髪を切ってくれていた。そして、しばらくぶりに伊藤床屋に出かけたら、シャッターが降りていて、廃業します、という貼り紙。
最後に行った時、彼らの息子さんが手伝っていたので、ああ、次からは息子さんがやってくれるのだなと、なんとなく思っていたのだが、その気配一切無し。廃業してしまった。されてしまった。ううむ。
僕の髪の毛は、最近、薄い。禿げている。自分には見えない後ろ側だけ、少し普通にある(ようだ)。
髪の毛ない人の床屋って、難しいのではないか、と、僕は思っている/思う。ほぼ無い、より、やや有る方が、より難しいのではないか。ま、書いて(読んで)わかる様に、僕はちょっと、深く動揺した。
歳をとると、周りが先に死んでいく時がある。言い方がへんだが、様々なところで書いている?とうり、僕は長生きをする気は無い。だから、長生きをするための運動や体操や、サプリメントや、何やかにやはしない。だが最近、周りのぼくより若い人が亡くなっていく。どこか、ある境目があって、そこを超えると、一気に、周りの人が亡くなっていくのだろうか。ううむ、こういう歳のとり方が有るのだな。
何はともあれ、生まれてからの床屋が廃業してしまったので、僕は、新たに床屋を見つけなければいけなくなった。ううむ。唸ってばかりだ。
犬のゴローと夕方の散歩をする道筋に、新しい床屋がある。僕の家から、3回角を曲がると着く。なんのきっかけもないけれど、行ってみた。
髪の毛より、髭や何やかにや、顔を剃ってもらいたかった。僕とほぼ同じ年頃の男の人がやっていた。先客がいた。いつもの文庫本を持って行ったので、それを読みながら少し待って、やってもらった。特にどうということはないので、これからは、そこにいくことになるだろう。
この歳になっても、新しいことが起こって、ごくなんでもないことに様々楽しみながら、生き続けていくのだろう。